学区紹介」カテゴリーアーカイブ

筒井学童クラブが児童を受入れている名古屋市立筒井小学校・名古屋市立葵小学校の校区内に関するエントリーのカテゴリー

筒井学童の学区内紹介-7.物部神社(葵学区)

筒井学童学区内紹介、7回目は「物部神社」を取り上げます。

Mononobe昨年5月18日以来、忘れ去られていてもう終わったかと思われたこのシリーズ、久々のエントリーです。
お正月らしく、神社ということで。

物部神社は、創建が垂仁天皇代(第11代天皇、在位紀元前29年~紀元70年)とも言われている、由緒正しい神社です。
祭神は物部氏の祖と伝えられる宇摩志遅命(うましまじのみこと)、霊璽は大きな石です。
石を祭った神社であることから、この地区の旧町名「石神本町」にも繋がっています。
まあ、今は筒井三丁目の一部なんですけれども。

本当は画像を上げたいところなんですが、気がついたときには日が暮れた後だったので、とりあえず文章だけ。
明日にでも写真を撮ってきます。
<追記>画像上げました。

筒井学童の学区内紹介-6.神皇車と湯取車(筒井学区)

筒井学童学区内紹介、6回目は「神皇車と湯取車」を取り上げます。

筒井学区内には、古い歴史を持つ山車が2両あります。

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画像はWikimedia Commonsからの転載です。

2両ある山車の1両、神皇車は、江戸時代後期の1824年(文政7年)に作られたものを1887年(明治20年)に譲り受けたものと伝わっています。

名古屋にある山車にはからくりの機構を備えたものが多いのですが、この神皇車のからくりは、山車の名前にもなっている神功皇后人形を初めとする4体の人形が、故事にちなんだ内容を演じるものです。
1973年(昭和48年)には、名古屋市の有形民俗文化財にも指定されています。

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画像はWikimedia Commonsからの転載です。

もう1両の山車、湯取車は、江戸時代前期1658年(万治元年)に作られたものが1831年(天保2年)に譲られたものと伝わっています。名古屋に現存する山車の中では、最も古い歴史を持っていることになります。
湯取車のからくりは湯取り神事を演じるのもので、紙吹雪が釜から吹き上がるシーンが見どころです。
1973年(昭和48年)には、神皇車と同じく名古屋市の有形民俗文化財に指定されています。

これら2両の山車が筒井町内を練り歩く筒井町天王祭が行われるのも、もうすぐです。
今年は6月6日金曜日夜の前夜祭から始まり、祭のフィナーレの8日日曜日夜まで、筒井学区内はにぎやかです。

筒井学童の学区内紹介-5.芸術創造センター(葵学区)

筒井学童学区内紹介、5回目は「芸術創造センター」を取り上げます。

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画像はWikimedia Commonsからの転載です。

国道153号沿い、国道起点である小川交差点に程近いところにある名古屋市の芸術創造センター。
この地にはかつては名古屋法務局がありましたが、中区三の丸への移転後の跡地の活用として、昭和58年(1983年)の11月3日、文化の日にオープンしました。こけら落とし公演の際には、帰山栄治氏による「ソロマンドリンとマンドリンオーケストラの為の『協奏詩曲』」が作曲され初演されたとのことです。

なお、法務局跡地には、芸術創造センターに先立ち昭和56年(1981年)に東生涯学習センターが建てられています。

地上6階・地下2階建ての建物には、640席のホールの他、ホールとほぼ同等のスペースを持つリハーサル室や2つの練習室、芸術関係の各種資料を所蔵した資料室といった設備があります。

筒井学童の学区内紹介-4.黒門町・百人町(筒井学区)

筒井学童学区内紹介、4回目は「黒門町・百人町」を取り上げます。

先週火曜日の昭和の日に急遽第3回をアップしたため、準備が遅れた本企画。
ようやっとですが、第4回「黒門町・百人町」をエントリーします。

筒井小学校区の北部、やや東寄りにある黒門町と百人町は、いずれも清洲越しによる名古屋開府の過程にその端を発する町名です。

黒門町は、名古屋城二の丸の黒門の警備をその任とした同心達の屋敷があったことからその名がついたとする説と、筒井町四丁目にある宝池山自然院の本尊が京都黒谷から移されたことによりその門前を黒谷門前と呼ぶようになったことから発するとする説の2説があるようです。
いずれにしても、徳川時代の初期にその名があったということになります。
百人町は、清洲越しにより尾張藩に属することとなった関東百人組の屋敷がこの地にあったことからその名がついたとされています。

黒門町や百人町は、第二次世界大戦時における空襲の被害が比較的少なかったこともあり、戦後もかなり最近まで昔の面影が残された家屋が残っていました。今でも昔の面影を残した家屋が残ってはいますが、町を南北に縦断する幹線道路である市道赤萩町線が開通したこともあり、マンションが建設されるなどの変化も出てきています。

筒井学童の学区内紹介-3.錦通(葵学区)

筒井学童学区内紹介、3回目は「錦通」を取り上げます。

毎週日曜日にやるつもりだったこのシリーズ、ゴールデンウィークで学童の閉所日が増えることをすっかり忘れていました。
というわけで、急遽第3回「錦通」をエントリーします。

葵学区の南側の地域を東西に横断する形で走っている錦通。
北側の桜通、南の広小路通と並んで、名古屋市都心部東西方向の動線を担っています。
西側は名古屋駅近辺、名鉄バスセンターのビルから、東側の池下バスターミナルまでの全長約6Kmの道路です。

800px-Nishiki-dori_20121220錦通の名前の由来は、古今和歌集に収録された素性法師の和歌「見わたせば 柳桜をこきまぜて 都ぞ春の錦なりける」に由来するとされています。歌の中の「桜」を桜通、「柳」を広小路通沿線にかつてあった柳薬師に見立てて、その間に建設された道路だから「錦」通と名付けられたそうです。
錦通が堀川を渡る錦橋の袂には、命名の由来を記した石碑があったりします。

画像はWikimedia Commonsからの転載です。

錦通の地下には、地下鉄東山線が走っています。
というよりは、昭和30年代前半に地下鉄東山線が建設された跡地が、錦通になったという順番ですね。
第二次世界大戦後の名古屋市の復興都市計画の一環として、土地区画整理が行われて用地が既に確保されていたので、その土地を地下まで掘って東山線を建設し、埋め戻した後を道路としたわけです。
決して錦通の地下に東山線を工事して引いたのではありません(まあ、普通地下鉄を引くときはこの順番なんですけれどもね)。
なので、東山線の駅は軒並み錦通の地下にあるわけです。葵学区内にも、新栄町駅と千種駅があります。
1つならともかく、2つあるっていうのは結構すごいかも。

筒井学童の学区内紹介-2.建中寺(筒井学区)

本日の筒井学童学区内紹介では「建中寺」を取り上げます。

先週日曜日から唐突にスタートしたこのシリーズ。
第2回目の今日は、筒井学区としてはやはりここは外せない、建中寺を紹介します。

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画像はWikimedia Commonsからの転載です。

徳興山建中寺は、江戸時代初期の慶安4年(1651年)に、尾張徳川家第2代当主徳川光友が、父である第1代当主徳川義直(徳川家康の九男)の菩提を弔うために建立したとされています。以来、尾張徳川家の菩提寺として、歴代当主の墓所となってきました。現在では、2代光友以外の当主の墓所は平和公園に移されています。

建中寺の現在の境内は、創建時よりもかなり狭くなっています。というのも、太平洋戦争以前は境内であったところに、戦後になって東区役所、名古屋市立あずま中学校といった施設が多数建てられたからです。また、現在の境内の南側、上の画像の総門までの間は、筒井学童の子供の遊び場になっている建中寺公園となっています。

毎年6月の第1土曜日・日曜日には、名古屋地区の夏祭りの先陣を切る形で筒井町天王祭が行われ、江戸時代から伝わる神皇車・湯取車の2台の山車が町内を練り歩くと共に、建中寺公園には屋台が立ち並びます。

筒井学童の学区内紹介 – 1.カトリック布池教会(葵学区)

筒井学童クラブは、筒井小学校の児童と葵小学校の児童を受け入れています。

というわけで、学童がお休みで活動が基本的にない日曜日には、筒井・葵両学区内の紹介をしてみようかと思います。
何から始めようか考えましたが、最初は葵学区のこの建物から行くことにしました。
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画像はWikimedia Commonsからの転載です。

葵小学校近くにあるカトリック布池教会の聖堂です。
正式にはこの聖堂は「聖ペトロ・聖パウロ司教座聖堂」といい、何でも愛知県を初めとする6県を統括するカトリック名古屋司教区の司教座聖堂なんだとか。昭和37年(1962年)に名古屋知牧区が名古屋司教区に昇格するにあたって建てられたとのことです。
ゴシック様式により建築された聖堂で、やはり一際目に付くのは2本の尖塔ですね。夜にはライトアップもされます。
建築物としても評価されており、名古屋市の都市景観条例に基づいて都市景観重要建築物にも指定されています。

葵小学校の子供の多く(校区の東側に住まいがある子供たち)は、カトリック布池教会の尖塔を眺めながら毎朝登校しています。